タコとルンバとダンゴムシと
今の家に入居した時、契約祝いとしてルンバがプレゼントされた。諸々の事情があって半年の間休眠していたのを、なんとか稼働させられる状況になったので試しに動かしてみると、なんとまあ愚かなことか!モノにぶつかっては回って、またぶつかっては回ってとおよそ家主をバカにしたような行動に呆れ返ってしまった。結局、1回使ったきりで彼はクローゼットの奥深くに眠っている。
年末、帰省して久しぶりにルンバの話が出た。「あれ、使ってるんか?」と。それに対して、「あれはどうしようもないバカだよ」と答えた。最近のものは、どこに何かあるかを学習し、効率的に掃除をするそうだが、うちのはどうも学ぶ意思が見られない。
ダンゴムシのあの動き(左にぶつかったら右に曲がる、右にぶつかったら左に曲がる)のことを交替性転向反応というらしいが、ヤツの動きはまさにこれである。大変呆れた。人類が掃除というストレスから解放されるために発明された自動掃除ロボットが、こんな原始的な動きをしてモノにぶつかってウィンウィンやっている姿を見せられては返ってストレスが溜まるものである。
そんなことを思いながらブログのネタにでもしてやろうと思って書いているのだが、しかし、よくよく考えてみるとルンバもダンゴムシも自分と大して変わらないのではないか。壁に行き当たりばったりの姿は、外から見てみれば自分もルンバもダンゴムシも同じようなものだろう。実に愚かだと同情の目まで向けそうになっていたのが、自分も同じようなものではないかという考えに至り、情けなくなった。
そういえば思い出した。いつしか、「こいつを売ればそこそこのお金になるのではないか」と思ってインターネットで検索してみたのだ。7,000円だった。
徹夜で得るもの・失うもの
ここ2週間ほど尋常ではないほど課題が立て込んでいてまともに休んでいる暇がない。そして、この記事を書いている今日もまた明日の課題のために徹夜する見込みである。せっかくの機会なので、徹夜をすることによって得るものと失うものについて考察していこうと思う。
得るもの
1. 時間
普段寝ている時間を使うことができるのだから6時間ほどのまとまった時間が手に入る。6時間もあれば大抵の課題は終わらすことが出来るだろう(ただし、徹夜による効率性の低下は考慮しないものとする)。
スキマ時間で課題をこなそうとしたところで課題に集中しようと集中しているうちに終わってしまう。作業効率というのは作業時間が長くなるほど飛躍的に上昇していくので、まとまった時間というものは貴重である。是非とも有効活用したい。
2. 評価
多くの場合、課題というものは時間をかければかけるほど評価が高くなる。かかった時間が長いほどアイデアは熟し、文章は洗練され、より見栄えする成果物を提出することができる。
評価の上がり具合は対数グラフのように初めのうちは大きいが、だんだんとその伸び具合は小さくなる。しかし、徹夜しなければいけない課題にそれほど時間をかけているとは考えにくいので、思う存分、心ゆくまで課題をこなすのが吉である。
3. 空腹
徹夜をすると信じられないほど腹が空くのが早い。腹が減っては戦ができぬということでコンビニに行ってお菓子を買って食べるが、1、2時間もすればまた空腹感を覚えて買い出しに行く。こんな調子では課題が進まないと苦悩しながら食べるお菓子ほど美味しいものはない。
失うもの
1. お金
上に書いたように何度も買い出しに行くせいで一晩で1,000円以上は飛んでいるような気がする。徹夜による判断力の低下に加えて徹夜の非日常感(最近は日常になりつつある気がするが)による高揚感によって後先考えずに商品を手に取り、レジに持っていくせいで出費がとめどなく嵩んでいく(来月のカードの請求が恐ろしい)。
2. 健康
夜遅くに糖分を大量に摂取するのは、健康的な生活を送っている者から見れば大変罪深い行為である。睡眠不足のせいで体はだるく、体力は衰え、健康面ではなにひとつ良い面が無い。健康的に徹夜する技術の開発が待たれる。
3. 時間
徹夜は時間を得る行為でもあり失う行為でもある。徹夜をした翌日はまともに頭は回らないし、寝なかった反動で昼前まで寝るはめになる。昼前に起きて良い一日を過ごせた覚えがないので、得られた時間を差し引いても結局は時間を失っていることになっているのではないか。
腹は減るし、お金は消え、健康を失い、貴重な時間さえも捨てて残るのは先生からの評価だけである。しかも、いい評価がもらえるという確証もない。そんなギャンブルに人生を溶かすなんて愚かな行為だと思いつつ、また今日も徹夜するのである。
朝の時間2
最近、二度寝が常習化して慌ただしい朝を送っている。バイトをすると夜遅くに帰り着くことになり、早起きができないのだ。世間一般的に大学生が朝に弱いというのはバイトも関係しているのではないか。
中高一貫の男子校に通っていたのだが、中学時代と高校時代でその環境はまるで違った。例えるならば、中学時代は動物園で高校時代は監獄とでもいうところだろう。生ぬるい環境で育てられた3年間の後に待っていたのは地獄のような3年間だった。*1
高校生になってすぐ担任の先生に言われたのは「朝4時に起きて勉強しろ」というものであった。まだ純粋だった当時はその言葉を間に受けて、10時に寝て4時に起きる生活を試しにしてみた。そこから得られたのは、あまりにもお腹が空いていると勉強できないということであった。
朝早く起きたからといって朝ごはんを早く食べられるわけではない。キッチンの使用権限は全て母が握っていたから、母が起きるまで朝ごはんにありつくことは出来ない。極度の空腹下で勉強をしても吐き気を我慢する方に意識を持っていかれて全然集中できず、結局1週間足らずでやめてしまった(大学生になってすぐもこの生活を実践しようとしたが、当時は食事付きの物件に住んでいて7時からしかご飯を食べられなかったので同じ理由で断念した)。
次に言われたのが「始業の1時間前に学校に来て自習しろ」というものであった。これもしばらく実践してみたが、男子しかいない空間において真面目に勉強することが許されるわけがない。先生も教室に来ないから、朝早くからみんなで馬鹿騒ぎをして時間を潰していた。そんなことなら早く行かなくても良いではないかと思うだろうが、最寄駅から学校までの通学路の間に担任の先生が立って挨拶をしていたのでゆっくり行くわけにもいかなかった。
そんなこんなで、クラスの全員が先生の言うことを真面目に聞かない捻くれた生徒になってしまった。ゆで卵が生卵に戻らないように一度捻くれた人間が純粋になることはなく、高校生活はいかに先生の目を盗んでふざけるかという方向に努力が向いていた(ふざけると言う点においては中学時代に培った経験からか皆優秀だった)。
朝は可能性に溢れている一方で、有効活用するのは非常に難しい。朝を有意義に過ごす準備は前日の夜から始まるのだが、これが最初にして最大の難関なのである。バイトをせずに悠々自適と暮らせる生活が恋しい。
*1:当時のことを思い出すと今でも身の毛がよだつ
坊主の精神
その日は突如として訪れた。いつもの美容院で散髪したらとんでもない髪型になってしまったのだ。普段短髪で注文しているのが裏目に出て、この事態を収拾するには坊主にするよりほか残された道はなかった(どれほど酷いかというと、七三分けの三の部分を全て刈り取られた。わかりにくければ、右から見たら七三分けだが左から見ればモヒカンになっている。それでもわかりにくければ、ダンゴムシを半分にかち割った形を想像してほしい)。
数時間の葛藤の後に坊主にすることを決心した。数人の友達を呼び集めて断髪式を決行したのだが、その過程も酷いものだった。見るもの全員に笑い者にされた挙句、どうにかならないかとワックスで残った髪を弄ばれ、バリカンがあるのにハサミで切ってみたいと好き勝手にされた。最終的には綺麗な坊主にしてもらったが、何か大事なものを失ったような気がした。
坊主といえば、ある日突然坊主にしてきた友人がいた(この友人は以前の記事に登場した友人のことでもある)。
教養が豊かで芸術にも通じていて、芯のある考えを持っている彼のことを尊敬していたが、突然の坊主姿には大変驚いた。何か深い訳があるのだろうと理由は聞かずに、友達と取り囲んでタワシのようになった彼の頭を撫で回していた。
今となってはその理由がわかるような気がする。坊主にすると今までの自分とはすっかり違うように感じられるのである。坊主にした直後は、鏡に映る坊主姿の自分が自分であることを認識するのに少し間がある。脳内で髪のある状態が自分であるという観念が邪魔をして、坊主姿の自分を拒絶するのだろう。それが自分であることを認識した時、そこには観念に対する諦めが生じているように思える。
この諦めを克服しその姿を受け入れた時、心は全く生まれ変わる。今までの嫌なことや悩みなど全て霧散する。髪と共に煩悩は断ち切られ、新たな自分として生きることができる。出家する際に髪を全て剃り落とすのも、俗世との繋がりを諦め、煩悩を断ち切るための儀式なのだろう。
翌日、意気揚々と学校に行ったら「イカつ」「犯罪者?」「シャバの空気は美味しいか?」と散々な言われようだった。早く髪が伸びてほしい。
二度寝の功罪
「二度寝は私に至福をお与えなさった、そして、取り返しのつかない事態をもたらしなさった。」
タコ・スケ(2006-)
二度寝はこの上ない幸せをもたらしてくれる。もう一度寝られるという安堵、まだ寝られるという優越、全てを忘れて寝てしまう解放。ベッドの誘いと理性が争い、理性が誘惑に負けた時、平和と安寧が約束される(理性が負けた時と書いたが、理性は自分が制御しているものだから降伏したとする方が正しいのかもしれない)。
二度寝はこの上ない厄災をもたらしてくる。遅刻するという焦燥、朝の時間を無駄にしたという絶望、何も進んでいない課題。眠りから覚めて自分の置かれている状況を理解した時、理性はベッドの誘惑に負けたことを後悔する(不思議なことに、二度寝から覚めた時の脳の回転は異常に速く、一瞬の内に絶望の淵へ追いやられる)。
およそこの世は不条理であり、自分に損をもたらすものに限って幸せを感じ(二度寝、暴飲暴食、夜更かしなど)、自分に利をもたらすものは厳しく、苦しいのである(勉強、運動、早起きなど)。そして、ストイックに生きる人間は褒め称えられ、見習うべき対象として持ち上げられる(母親に、◯◯くん/ちゃんはあんなに勉強を頑張っているのに、あんたはどうして遊んでばかりなのと非難されたことがあるのではないか。それに対して、「でもそんな子に育てたのはそっちでしょ」と返すと火に油を注ぐことになる)。
しかし、自分に厳しくばかりしているといつか壊れてしまう。時には損することを甘受して幸せを感じることも必要になる。毒も薬も食わねばならないのだから生きるということは大変である。
なんだか暗い話になってしまったが、要は極端はダメということである。「中庸」という言葉があるが、まさに「中庸」な生き方こそが理想なのだろう。自分に甘すぎもせず、厳しすぎもせず気楽に生きればそれで良いのである。そういうわけで、たまには二度寝するのも良いだろう。睡魔に対して素直に白旗をあげるのも悪くないものである。
それでもピアノを弾く理由
ピアノの道は険しく、果てしない。普段自分の手に不自由を感じることはないが、ピアノと向き合った途端指は言うことを聞かなくなり、右手と左手は協力することをやめ、脳にこれでもかと言うほどストレスを与えてくる。弾ける曲ならまだしも、初見の曲に挑戦する時はもうお手上げである。言うことを聞かない指はあらぬ鍵盤を叩き、不協和音を奏で、ただでさえ楽譜を読むのに一生懸命な脳にさらなる負荷をかけてくる。
小学生の時はピアノを習っていた。週に1回、先生が家にやってきて2時間ほどレッスンを受けるのだが、当時はその時間が嫌で嫌で仕方なかった。嫌々レッスンを受ける態度を見て腹を立てた母に雨の降りしきる中、庭に閉め出されたのは今となってはいい思い出である(そして、母に反抗的な態度をとることが悪手であると学んだのか反抗期は訪れなかった)。
中学生になってからはサッカー部に入って、毎日クタクタでピアノを練習しようとする気力は残っていなかった(しかし、ゲームをする気力は残っていた)。それで、パタリと弾くのをやめてしまった。今思えばもったいないことをしたなと感じるが、男子中学生というものは概して楽な方に流されてしまうのだから仕方ない。
高校生になってからは勉強ずくめの毎日にうんざりしていた。息抜きできるものを探していた時に自分の部屋に置いてある電子ピアノが目に入った。ゲームをしていると怒られるがピアノならば怒られないだろうと考え、ピアノを再開した(普段は道の左右を直感で選び間違える人間だが、珍しくこの勘は当たって順調に勉強から逃れることができていた)。
高校3年生になって新たな友人ができた。彼はベートーヴェンの「月光」を好んで聞くと言い、それならば弾けるようになって聞かせてやろうと思って、母にベートーヴェンの3大ソナタ集を買ってもらった。1ヶ月ほど経って「月光」の第一楽章がなんとか弾けるようになったが、結局彼の前で演奏することなく卒業の日を迎えてしまった。
この出来事がきっかけでクラシックに魅了されてからは、すっかりピアノの練習に精を出すようになり、受験期は母に「音大でも受けるのか」と心配されるほどピアノを弾いていた。全くクラシックに興味が無かった人間が、一人の友人との出会いをきっかけにもう2年以上経った現在もクラシックを弾き続けているのだから人生何が起こるかわからない。
作品を楽しむだけならプロの演奏を聞けば良いではないかと思う人もいるだろうし、それはもっともな意見である。プロの演奏の方がずっと上手いし、深い表現力を備えているし、何より聴いてて気持ちが良い。それでも自分の手で演奏しようとするのは、やはり聴いているだけでは気付きにくい魅力があるのだと思う(実を言えば、自分でもなぜ練習を頑張っているのかよくわからないが趣味なんて大抵そんなもんであろう)。
10本の指と気が狂いそうになりながら格闘を続け、ある日練習した曲を気持ちよく弾けた時は、弾きながら鳥肌が立っているのを感じられる。もちろんプロのレコーディングを聴いて鳥肌が立つこともあるが、それとは比べ物にならない背筋がゾッとするような感覚に襲われるのである。
今から思えば、ずっとピアノのレッスンを受けておけばよかったと後悔することもある。どうして真面目にレッスンを受けなかったのかと過去の自分を責めたくなるが、そんなことしても仕方がないし、昨日の練習をサボったことの方が重大である。是非とも悔い改めてほしい。
そんなわけで今日もまた練習を続ける。大作を弾けるようになるのが先か、気が触れるのが先か、見ものである。
朝の時間1
最近入眠して5時間半経つと自動で目が覚めるようになってしまった。普段寝る時にスマホのアラームを6時間後に鳴るように設定しているから、決まって30〜15分前に目覚めて、アラームが鳴る前に切るというわけのわからないことをしている。
中高時代、平日は毎朝6時に起こされていた。母の声はよく通るもので、キッチンから廊下を挟んで少し奥まった部屋で寝ていても聞こえてきた。その声が聞こえたらベッドを飛び起きて、急いでリビングへ行く。1分でも長く寝ようとすると2回目のコールがかかるのだが、その時の少し怒りを含んだ声を聞けば、脳が危険信号を出して否が応でも目が覚める。
家から電車を3本乗り継いで1時間弱かけて登校していたので朝は忙しかった。妹も電車通学だったから朝は洗面所の奪い合いが起こる。ちんたらしていたら蹴りを入れられるので一瞬たりとも油断はできない。*1
1、2ヶ月に1回ほど母は寝坊した。普段の「遅れるよ〜」という脅し文句よりも「寝坊した」の一言の方が数千倍恐ろしかった。顔面蒼白になり、まるで天変地異が起こったかのように家の中が騒がしくなる。朝食をかき込んで、あれがないこれがないと大騒ぎで支度して家を飛び出る。特に洗面所における争いは、負けると遅刻するので激化し、殴る蹴るの大喧嘩である。
休日は8時ぐらいに起きることが多かったが、たまに6時に目覚めることもあった。そんな時はまだ寝ていなさいと言われた(普通休日に早く起きたら褒められてもいいような気がするが)。高1ぐらいでロードバイクに乗り始めるようになる*2と朝5時ぐらいに起きて父と一緒に走りに行くこともあった。時には10時に起きることもあった。朝遅く起きた時には午前があと2時間ほどしか残されていないという事実に嘆き、何もする気が起きなくなってしまう(これが嫌で最近は休日でも平日とあまり変わらない時間に起きるようにしている。やはり、1日を有効活用するためにも早起きすべきである)。
そんなわけで中高時代は忙しい朝を送っていたが、大学生になって一人暮らしをするようになってからはようやく静かな朝を送れるようになった。ただ、静かな朝は少し寂しいものである。